修羅場(補足)

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前回の記事では、タイトルが修羅場とありながら、阿修羅の説明はしたものの修羅場とは何かと説明してませんでした。

ちょっと自分の中でもイマイチだったんで、補足記事を書きます。


修羅場とは、帝釈天と阿修羅が戦っている場所です。
帝釈天は、元々はインドの神様で、神の中の神であり、天(帝釈天)も阿修羅も八部衆に括られていますが、天の方が圧倒的な力を持っています。
八部衆とは仏法を守る八つの神々の区分けみたいなものでしょうかね。

その阿修羅は、帝釈天に負けては何度も何度も挑戦し続けます。
でも何で、戦っているのか?

阿修羅には娘がいて、帝釈天が強引にその娘を奪い取ったからだと言われます。
こういうところから、不倫とかのイメージが合致するのかもしれません。

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そして、もう一つ
前回、私たちは真実を真逆に見ていると書きましたが、

これも説明不足と思いました。

仏は、幸せに生きる(存在する)本質と物質的な所有や執着とは別であると悟っているから、如来像は最低限の衣服のみをまとい、宝飾品は身につけていない。

ところが、仏の中の仏である大日如来は、キンキラキンです。
これは何を表しているのだろうか?

私たちは、幸せになろうと物質的な所有を満たそうとします。
しかしそんなことは意味がないと仏は悟ります。
だから質素に生きるべきが正しいと考えてしまいます。

大日如来は宇宙そのものです。
これは、そもそも宇宙は豊かで贅沢の限りを尽くしても尽くしきれないくらい無尽蔵のエネルギーに満ち溢れていることを表している。
よって別に質素に生きようが、贅沢に生きようが、それ自体に何か問題があるわけではない。
釈尊は、その真理を得る過程で究極の断捨離を行ったので、釈迦如来像は余計なものを身につけていない。ということを表している。
と、私は解釈します。(これは一般論とは違うかもしれません)

この解釈は比較的容易であると思うのですが、
難しいのは阿修羅の表情ですね。



ちょっと考えてみましょう。

なぜ、悲しみを背負いながら戦い続けるのか。
八部衆は古代インドに由来する神々です。
古代インドといえば、ヒンドゥ教です。今も支配的な思想でしょうが、
ヒンドゥ教といえば、カースト制度であり、厳格な身分制度です。

神々である八部衆もキッチリ身分が分けられているのでしょう。
それに戦いを挑む。
ヒンドゥ教の中ではあり得ないことです。
しかし、八部衆の区分けは仏教思想です。

釈尊は、カースト制に疑問を抱き、それを打破する思想により悟りを開き真理を得ました。
その過程において、カースト制度に対して戦いを挑んで勝ったわけではありません。
力では、相手や権力を制することはできない。

私たちは、何かを変えようとか挑もうとするときに力で何とかしょうとします。
それは実は違うということではないでしょうか。


同じインドのマハトマ ガンジーも無抵抗によってイギリスを排除することに成功しました。
娘を奪われた父親は、怒り狂うのが人情でしょうが、
それは一つの例であり、自分が受ける悲しみや苦しみ、理不尽なこと。

それに対しては、絶対に戦わなくてはならない。
しかし、感情的な怒りをけっして表に出してはいけない。
戦いながらも、その悲しみを含んだ表情や感情こそが、真の力である。

その力を信じているからこそ、阿修羅は絶対に勝てない敵に対して、何度も戦いを挑んでいる。
しかし、表面的な負けは負けではない。
阿修羅のあの表情は、これこそが真理であると表しているのではないでしょうか。


北斗神拳で言えば、究極奥義 夢想転生でしょうか。
しかし、北斗神拳をケンシロウは、インドラの化身と言ってます。
インドラは、帝釈天のことです。
どちらかというと、阿修羅の方が夢想転生を得ようと頑張ってんじゃないかな(笑)

まぁ、漫画を絡めると結構面白い仏教思想です。
しかし、仏教思想と労働問題と何か関係があるのでしょうか…


うーん、あるんちゃいます。

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